一朝軒

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一朝軒法竹(古典本曲)を一朝軒道場にて稽古します。上記までお問い合わせください。
臨済宗妙心寺派 西光寺/明暗流尺八 一朝軒

更新情報

2023-10-25
2022-10-23
2021-02-18
「一朝軒法竹皆伝者」ページを更新しました。
2019-10-20
2018-10-21
平成30年度 「一朝軒法竹献奏会」を行いました。
2017-11-12
2017-10-22
2016-11-05
東京国立博物館「吹禅のひびき」コンサートにて、筑前博多一朝軒(福岡県無形文化財)として出演し、演奏いたしました。(ギャラリーを見る
2016-10-24
2015-12-07
2015-10-25
2014-10-26
2013-10-27
平成25年度「一朝軒献奏会」を行いました。
2013-06-25
英語表記のページ を公開しました。
※右上リンクで切替可(TOPページのみ)
2013-06-01
一朝軒サイトを公開しました。

一朝軒(いっちょうけん)

一朝軒  一朝軒は、博多にある普化宗ふけしゅう虚無僧寺こむそうでらの名称です。寛永年間(1624~1643年)、 京都明暗寺の一翁(一朝軒開山)が博多に下り、住職がいなかった円通寺に居住して虚無僧生活に入り、 筑前における最初の虚無僧寺となりました。

 第5世一空の時、藩に願い出て矢倉門(祇園町)に地所をたまわり 「円通寺・一朝軒」と号し、後に「普門山・一朝軒」と改めました。明治4年(1871年)の普化宗廃宗 に伴い一朝軒も免れぬところとなりましたが、昭和26年(1951年)大乗寺前町(冷泉町)に再興し、 昭和32年(1957年)臨済宗妙心寺派聖福寺塔頭の西光寺内に移っています。

 本堂には普化宗の祖「普化禅師」、虚無僧の祖「楠正勝くすのきまさかつ」の尊像をお祀りしています。公には普化宗は廃滅しましたが、 法灯は継承され、昭和40年に一朝軒伝法竹として福岡県の無形文化財に指定され現在に至っています。

普化宗(ふけしゅう)

 普化宗は、尺八を法器として吹くことで、禅の修行とする宗派です。 即ち尺八の一音に徹底することで、悟りを得ること(吹禅すいぜん)を宗旨としています。

中国唐代に臨済禅師と交流のあった普化禅師を始祖とし、普化禅師が托鉢たくはつの時に鳴らした鈴(鐸)の音を慕って、 弟子がその音を尺八で模したのが始まりです。鎌倉時代に入宋した心地覚心(法燈国師)によって我国へ伝えられました。

「虚鐸伝記国字解」(江戸時代に書かれた普化宗縁起)


普化禅師像  江戸時代に普化宗はたいへん隆盛しましたが、明治4年(1871年)に、 江戸幕府との繋がりが強かったため維新政府により廃宗とされました。

「虚鐸伝記」による縁起は創作であると言われていますが、一宗門として存在した歴史と伝統は今日にも受け継がれています。



虚無僧(こむそう)

楠正勝公像  虚無僧とは尺八を吹いて托鉢する普化宗徒のことです。 虚無僧と呼ばれるようになったのは、南北朝時代に活躍した楠正成の孫、楠正勝が入宗し 「虚無こむ」と名乗り尺八を吹き諸国を行脚したのに由来します。
他説には座臥用の薦を腰に巻いて托鉢していたから 「薦僧こもそう」と呼ばれるようになり、 それが変化したとも言われています。 また「梵論師ぼろんじ」、 「梵論梵論ぼろぼろ」、 「暮露ぼろ」とも呼ばれていたようです。

 江戸期に入り普化宗は確立し、虚無僧は三具(尺八・袈裟・天蓋てんがい)三印(本則・会判・通印)を備えるようになります。 天蓋とは深編み笠のことで、世を遁れて隠者となった虚無僧は三界の苦しみを逃れた居士であるから、 塵の世を往来するのに、塵の風に眼が染まぬようにと天蓋をいただいたとされています。 天蓋には瞳孔という透し窓があって、外が容易に見透されるようになっていますが、一朝軒虚無僧の天蓋は、 明治維新までこの瞳孔がなかったそうです。

 本則は根本義の書き付け、会判は普化宗徒の証、通印は諸国往来の鑑札です。 虚無僧同士が出会ったとき偽虚無僧を区別するため三印を示し合わせるのが決まりでした。 また托鉢中どんなに高貴な人に出会っても天蓋を脱がないのが礼とされ、逆に顔を見せるのは無礼とされていました。 明治4年の普化宗廃止により虚無僧は姿を消しましたが、昭和になり虚無僧寺が宗教法人として認められ虚無僧の托鉢も復活しました。